本能寺の変の後、山崎の合戦で秀吉に敗れた明智光秀。
一般常識では、山崎で敗れて明智光秀は逃げる途中で落ち武者狩りにあって果てたことになっています。
でも、その明智光秀がについて別の事実が噂されているのをご存知でしょうか?
それが、明智光秀は『南光坊天海』と同一人物ではないか?という話です。
その話が挙げられるいくつかの共通する話があるんです。
それは一体なんなのか?
南光坊天海の正体は明智光秀?
実は南光坊は明智光秀ではないかと言う話は昔から囁かれていますよね。
実際にそうなのかそうではないか真実はなんとも言えないというのが世間の人々の考えだと思います。
…が、僕はもしかしたらそれは事実ではないかという風に考えられなくもないと思っています。
なぜ僕がそう思うか、それにはいくつかの根拠となるものがあるからです。
【根拠其の一】
1つめは、日光には明智平と言う場所があること。
ここの名前は南光坊天海がつけた名前なんです。
明智光秀と言う名を世に残したかったからと言われています。
本人以外が他人の名前を場所名にしてまで残したいと思うでしょうか?
【根拠其の二】
2つめが日光東照宮には桔梗紋があること。
桔梗紋は明智光秀の家紋なのです。
間違いなく桔梗紋に南光坊天海が関係しているのは間違いなさそうですよね。
徳川家の家紋ではないわけですし。
桔梗紋が至るところにあるのは何か意味があるのか、それはわかりませんが明智光秀=南光坊天海である一つの根拠と言えるでしょう。
【根拠其の三】
そして3つめは山崎合戦の後に『光秀』と言う人物が比叡山に石碑を寄進してるということ。
この光秀と言う人物が本人なのか?
【根拠其の四】
家光の乳母である春日局と南光坊天海が会った時の話です。
この時、春日局と南光坊天海は「お久しぶりです」と挨拶をしているのです。
仮に別人物だとしたら初めて合う人間に久しぶりという言葉を投げかけるでしょうか?
【根拠其の五】
そして5つめが南光坊天海と明智光秀二人の筆後が酷似しているということ。
とあるテレビ番組でプロの鑑定士の方に見てもらったところ同一人物か近親の人ではないかという話が出たんです。
【根拠其の六】
最後に明智光秀は実際は死んでなかったということ。
当時は影武者だっていたと思います。
死後の人物特定がはっきりされてないので明智光秀じゃない場合もあると思います。
しかし有力な根拠の一つなのではないでしょうか?
本能寺の変431年目の真実という本があります!
明智光秀の子孫の方が独自の調査で導き足した本能寺の変の真実が書かれています。
この本によるとどうやら・・明智光秀は徳川家康と組んでいたようです。
(信長は家康を亡き者にするつもりで本能寺の変前夜の茶会に読んだと言われています。)
ちなみに南光坊天海は徳川家康の参謀として関ヶ原の戦いの時に突然その名が歴史に登場するのです。
これが意味している事。
つまり、山崎の合戦で敗れた明智光秀は家康の元に逃げたのではないか?
これを言うと歴史好きの方には「いやいや、家康だって命からがら三河に戻ったんだからそれはないでしょ。」と言われそうですね(^^;;
ただ、歴史は勝者が書換えるもの。
事実は違う事はあると思いませんか?
【根拠其の六】
そもそも、秀吉の中国大返しって・・・ほとんど準備期間なしで出来るものなのでしょうか?
道中の食事は?
先に伝令を走らせて道々の農民に作らせていたというけど、兵士って3万人いたと言われています。
3万人分の食料ってすごい量ですよね。
農民全員合わせて、庄屋とかも合わせても・・3万食って準備できるものか?
たった5日で、それも大雨の中岡山から京都に行けるものか?
で、そのままあの有能な明智光秀と戦って勝てるものか?
明智軍の兵士は元気いっぱいなわけですし。
秀吉も兵士をちょっと休ませたというけれど、ちょっとで全開になるものか?
謎すぎます。
持論を書かせていただけば、秀吉と光秀、そして家康は組んでいたのだと思ってます。
で、秀吉だけ裏切った。
虚をつかれた光秀は3万の兵とたたかう準備ができてなかった。
で、負けて家康の元へ。
光秀は家康の命の恩人なので、歓待され、その際を買われて家康の参謀となった。
ではないでしょうか?
これだけの根拠があるので僕は真実なのではないかと思っています。
そして最後の5つめであげた「明智光秀の死」・・・。
「明智光秀は死んだんじゃないの?」
歴史上では死んだとされていますが真相はどうなのでしょうか?
【明智光秀は死んだはずでは?】
明智光秀は1582年7月2日に山崎の戦いで死んだとされています。
実は死に方もいろいろ言われていて山崎の戦いで落ちて行く途中に小栗栖によって落ち武者狩りにあったと言われていたり、戦いの最中致命傷を負う怪我をした為に自害したと言われていたりしています。
どちらもなくはない話なんですがこれもはっきりとした真実はわかっていなくてただ「明智光秀は山崎の戦いにて秀吉に敗れ死んだ」とだけ伝えられていますね。
しかし明智光秀の亡骸は見つかっていません。
敗れた際に倒れた人物が実際本物の明智光秀という証拠がないのです。
当時は影武者がいてもおかしくはない時代です。
明智光秀の様な人物であればなおのこと・・・。
このこともあり、明智光秀は影武者を使い死んだと思わせ実際は生きていたのではないか?
そしてその後南光坊天海として第二の人生を歩んでいたのではないか?
この様にいわれているんです。
僕の意見としては影武者を使って死んだと思わせた、とはちょっと違います。
秀吉が光秀を討った農民、確か三人だったと思いますが、すぐに呼んで、褒美をやるのではなく命を絶っているのです。
これって、口封じじゃないでしょうか?
何の口封じか?
世間に知られては困ること。
つまり・・・本当は光秀を討っていなかったのではいか?
そう思うのです。
3人の農民が落ち武者狩りをしてた光秀を討ったことにして、口封じをした。
そういう事です。
それでは山崎の戦いで敗れた後、明智光秀はどのようにして生き延びたのか?
なぜ誰にも知られることなく生き延びることができたのか?
どのような段階で南光坊天海として歩んだとされるのか?
実はこんな理由があったのです。
【死んだとされる明智光秀はどのようにして生き延びた?】
明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れたのち、死んだと言われています。
ですが実際は死んではいなく生き延び比叡山で身を隠ししばらくの間過ごしていたのです。
秀吉と実際に戦ったのは明智本人かとは思いますが、その後実際に「死んだ様に思わせる為に亡骸として」倒れていたのが『影武者』だったのではないかと言われています。
影武者を使ったかどうかは別として、とにかく逃げて比叡山に寄ったのです。
そうであれば実際は逃げ延び生きていたと言われてもおかしくはありません・・・。
明智のその後と言われている南光坊天海ですがどのような人物なのでしょうか?
最後に南光坊天海はどんな人物なのか?
どのようなことをしていたのか書いていきたいと思います。
南光坊天海はどのような人物?
南光坊天海は1536年〜1643年の間に生存していた人物で徳川の家康・秀忠・家光に使えてた僧侶とされています。
徳川政権の深部まで携わり活躍していた…と。
しかし前半生については不明な点が多い事で有名です。
また、南光坊天海は陰陽道や風水にも通じていたとされていて、なんと風水で城を建てる際は最もエネルギーの高い所に建てたとされています。
江戸全体を風水で強力なパワーをもった所にするためにいろんな手段を使い都市計画を考えたなど。
これはよく言われてる話ですよね。
なぜ南光坊天海は風水にこだわったのでしょうか・・・。
そして明智光秀=南光坊天海が真実だとしたら明智は何故第二の人生を南光坊天海として僧侶という立場として送ったのでしょうか・・・。
明智光秀=南光坊天海ではないのかの話についていくつか話しましたが疑問を1つ出せば次から次へと出てきますね。